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主と共に備ある歩み

執筆者の写真: taishiro sonaetaishiro sonae

更新日:1月15日



略歴

備 大始郎は、備 龍三とめぐみの長男として生まれた。自分の他にも、拓郎と三志郎という二人の弟がいる。生まれたのは原尾島と呼ばれる地域であり、誕生後は桜住座にある祖父の家で生活していた。そして父の転勤で備前市に数年住んだ後、原尾島に住み始める。原尾島には高校の卒業までいて、卒業後は留学のためにカナダへ移住することになった。結局カナダには約6年滞在することになり、現地の金融機関でも勤務をする機会を得た。カナダから帰国した後は、地元に戻ってから間も無くして東京で働くことになった。東京では主に経営コンサルティング会社で勤めることになり、その後はニュージーランドでの起業や大学院での国際協力開発研究、人権問題を中心とする国際政治活動などを経て、2014年11月下旬に実施された衆議院議員解散総選挙を転機に再び岡山へと戻った。そしてある日に主なる神に導かれて、聖都エルサレムへと移り住む。 以上が筆者の簡単な経歴である。便宜上2014年12月から現在に至るまでの期間については割愛したが、これについては後ほど別の項目と関連させて書き記していく。

主定天命

1985年7月1日、備 大始郎は眩しく輝く朝日の光を浴びながら、この世に生まれ出てきた。今にして思えば、これが人類における歴史の大きな始まりであったとも言えるであろう。言うまでもなく、備 大始郎という名を持つ人間はこの世にたった一人しかいない、唯一の存在である。そして未来永劫にそうであろう。これは主の定めた天命によるところである。 幼少期誕生期の独特な背景もあり、備は幼い頃から類まれなる能力を発揮していた。常に他の者達とは違う行動を好み、独創的な考えの基で独り歩きをすることも多々あったことを覚えている。一つの例として、備は将棋に大変励んでいた。そして小学校の高学年になる頃には、岡山大会で何度も優勝を繰り返した。その状況は中学生になっても続き、やがてプロを目指すためにプロ棋士の養成機関である奨励会へと通うようになった。奨励会は東京と大阪にあるのだが、地理的に近いこともあり、結局は大阪へ対局のために月に二回は通う日々が数年間続いた。

岡山青年期

高校生になり、これからの進路を考えていた時に大きな分岐点に立っていた。もうプロ棋士になることを半ば断念していたこともあり、将来に対する方向性に大きな不安を抱いていた。学校での勉強にもそれなりには励んでいたが、大学進学を強く志望していた訳でもないため、あまり大きな成績は残せていなかった。そのような中で、備はまた独特の構想を描いていた。「将来は国連事務総長になって、世界を一つにまとめる!」という、突発的な思いであった。最初にどこからそのような発想が出来上がったのかは定かではないが、いずれにせよ当時からどうすれば世界統一ができるのかということを、真剣に考えていた。やがてその実現のための戦略的な構想を練り上げた。今になって思えばその内容は大変お粗末なものであるが、現在を生きる一つの基盤となっていることは間違いない。そしてそのような構想に基づいて、ついに海外へ飛び立つ決心をした。その行き先は日本から遥か遠方にある北米の国、カナダだった。

カナダ留学青年期

高校を卒業してしばらくの準備期間を経た後に、カナダのオンタリオ州にあるトロントと言う都市へ単身で移り住んだ。そして現地にある語学学校で大学進学に向けた勉強を始めた。今になって思うと、国連を目指すのであればニューヨークへ飛び立った方が賢明だったような気もするのだが、これも主の天命だったのであろう。人生という道を歩む上で、時に寄り道も必要ということであろうか。ともかく、当時はカナダの大学へ進学するための勉学に励んでいた。学校での生活は、日々が新鮮であった。近年では東京を中心に多国籍の学生が数多く滞在していることから、日本でもそれ程珍しくはなくなったが、当時の自分にとっては衝撃的な異文化体験であった。ましてや英語で世界中から来た人たちと話すことなど、現在でも岡山ではそう頻繁に機会はない。様々な学生や先生達との交わりの中で、新たな価値観が芽生えていった。学校が始まって最初に出会ったのは、ヨンとキムと言う二人の韓国人だった。おそらくその時が、生まれてから最初に出会った韓国人でもあったように思う。二人とは年齢が近いこともあり、すぐに仲良くなった。学校での授業が終わった後は、よく色々な店に行って遊んだ。その後間も無くして、ベルギーからやって来たアンティネラという女性に出会った。彼女は頭脳明晰で試験では高得点を取っていたし、授業中には積極的に発言することも多かった。眩しく輝く金色の髪とエーゲ海のように透き通る青い目をしていて、いつも真っ赤なコートを身に着けていた。そして向こうの習慣から、毎日のように様々な男性と頬に接吻をしていた。その他にも、色々な国から来た人達との交流を深めた。ある日、メキシコとブラジルから来た中年男性達と一緒にナイアガラにある壮大な滝や、大人のお店にいる女体を観に行った。また少なからず、日本人留学生とも交わっていた。英語の勉強に集中したかったこともあり、一定の距離は置いていたが、日本と言うものを思い起こす良い機会となっていたようだ。これ以外にも現地のカナダ人との交わりも多くあった。当初はホームステイをしていたこともあり、私生活からカナダ文化を学ぶことができた。総じて、カナダ人は寛容で優しかった。語学学校での生活が続いていたある日、大きな転機が訪れた。他の都市への引っ越しである。実はトロントにいる際に何度も近隣での引っ越しを繰り返していたのだが、どうやら地方育ちの自分には大都会での生活にあまり馴染めなかったようである。もっと落ち着いた環境で勉強に専念したいと言うこともあり、カナダの首都であるオタワへと移り住んだ。オタワにやって来ると、国会議事堂のそばにある語学学校へと通い始めた。その後しばらくして、入学を志望していた大学付属の英語学校へ転校することになった。そしてついに大学進学を果たし、入学時には経営学部を選んだ。そしてその後は金融を専攻し、卒業にいたる。また大学での勉強とは関係なく、フランス語や中国語、さらにはスペイン語等の語学学習にも励んでいた。結局のところ中国語とスペイン語はほとんど続かなかったが、フランス語の方は長く続けることができ、今でも継続している。機会があれば、フランス語での伝道も行ってみたいものである。勉強以外にも、他の学生やすでに社会の第一線で働いている人との交流にも励んでいた。中でも特に印象に残っているのが、当時オタワ大学に在学していたある友人である。なぜかと言うと、彼がいわゆる同性愛者だったからである。自分はこれまでそのような人と実際に会って直接的に関わることはなかった。なので出会った当初は一体どう接していいものかと、半ば困惑していたものである。彼と最初に出会ったのは、Meetup と言う社交会であった。ここは会の趣旨に関心のある者ならば誰でも参加できる場で、ほぼ毎週のように催されていた。彼は長年にわたり日本語を勉強していたこともあり、とても流暢に日本語を話していた。日本文化についても自分を上回るのではないかと思うほどに、よく心得ていた。そんなこともあって、彼とは次第に友達としてとても仲良くなっていった。そしてある日、彼の家へ遊びに行くことになった。家の中では一緒にテレビゲームをして、ちょうど家にいた両親と食事をしながら話をする機会も得ることになった。このような体験を通じて思ったのだが、 同性愛者は基本的に性に関すること以外はいたって正常なようである。彼の場合もまた、世界中どこにでもいる家庭の中で生まれ育ち、ごく普通の環境下で生活してきたようだ。今まで特に変な病気を持っていた訳でも、特別な事件に巻き込まれた経験がある訳でもなさそうだった。一体なぜ同性愛者になったのか、今でも不思議に思うのである。これも、見えざる手による働きなのであろうか? 話は逸れるが、個人的には同性愛者に対してあまり快い見解を抱いていない。なぜなら、同性愛は自分の信仰するキリスト教理に反する可能性が大いにあるからである。もちろん、性の多様性を一定に認めることも重要ではあると思う。しかしながら、人間は本来男女で一体と主なる神が定めたのであるから、その関係を壊すような性的活動は悔い改めるべきであると言える。学業以外にも、いくつかの仕事をしていた。主に、現地のカナダ人に向けて日本語を教えていた。その時になって日本語を一から教えることの難しさを痛感したものである。最後に、留学生活を総じて述べていく。自らの経験を通じて思うのが、勉強以外のことを学ぶ重要性についてである。今までの記述からも読み取ることができるように、学校で学問として勉強してきた以外の時に学ぶことの方が圧倒的に多かったと、個人的な実体験からも言える。そう考えると、言い換えればそもそも学校で学ぶことの必要性はあまり無いとも言い切れる。もちろん専攻によっては、学問として学ぶことの重要性は大いにあるかもしれない。だが経営や金融に関して言えば、そうではなくむしろ現場から学ぶことの方が遥かに多いと言える。色々な知識を得るよりもまず地頭を柔らかくして、常識にとらわれない柔軟な発想のできることが重要であると思う。学校での学びはそのための基盤づくりとも言えるかもしれない。

カナダ就労青年期

オタワでの学生生活を終えた後に、就職のために再びトロントへ移り住んだ。そしてしばらくして、金融街の中心に位置している金融会社で働くことになった。職場では主に法人間の資金送金を管理する部署に配属され、そこではコンピューターによる高度なソフトウェアシステム関連の業務を日々こなすことになった。働き始めた頃は、何もかもが新鮮に思えた。まず会社で面接を行った際に、社内の豪華な構造に圧倒された。正面玄関は金で装飾されており、眩しく輝いていた。そして受付に来ると広々とした空間が目に映り、奥には巨大な金庫が見えた。面接は結局二度ほど行われたが、どちらの際も大変に緊張していたことを今でも覚えている。その後入社が確定し、最初に出勤した時にまた新たな驚きがあった。それは、職場へ向かう前の手続きの時に起こった。この会社では新入社員の本人確認をするために、パスポートなどの身分証明書の提示と指紋認証を行ったのである。金融機関ということもあり、犯罪防止のための厳重な警戒態勢を施しているのだろうが、それにしても新入社員に対して指紋認証までさせているのには驚かされた。まだ現在の日本でも、警察を除いてはそこまですることは考えられないのではないだろうか。ここでも、日本との文化の違いに大いに気付かされたものである。手続きを終えると職場に案内され、いよいよ勤務が始まった。担当部署に配置されると、まずは上司や同僚たちと簡単に挨拶を交わした。カナダと言うこともあり、社員の生い立ちも様々であった。現地で生まれ育った者もいれば、自分のように異国から移民としてやって来た者もいる。まさに、世界中から人が集まった職場である。これゆえに文化や人種、宗教観などもそれぞれに異なる。お互いに相通じるのは、英語と金融関係のことぐらいであったかと思う。働き出してからしばらくの間は、すべてのことが基本的に順調に進んでいた。少なからず問題もあったが、その都度に修正し、平穏な日々が続 いていた。だがある時に、事態は一変した。実は自分が働き始めたのは、世界経済に多大なる影響を及ぼした、リーマンショックが起きて間も無くの頃であった。そして自分が勤務していた会社もニューヨークのウォール街に本社を置く企業とも取引があったために、その影響は当然のことながらあった。そのような状況で、ある日社員全員に向けて社長から一斉メールが届いた。それは事実上の解雇予告であった。その後間もなくして、上司からある部屋へと呼び出された。その時は、ある種の警告であった。そしてその後、再び呼び出された。この後ほとんど間も無くして、会社を去ることになった。会社を去った後は、迷走を極めていた。成果報酬型の金融営業をしばらくやってはみたものの、成果はほとんど出なかった。他業種の様々な仕事にも挑戦してみたが、長くは続かなかった。やがて生活のための資金も底をついてきた。そしてついに日本へと帰国することになった。今になっては、このようになったのは主の定めであろうと思う。ちょうど当時の自分はこれ以上カナダに留まる意味を見い出せなかったし、これもある種の天命に導かれたと言えるだろう。

東京就労青年期

日本に帰国した後は、地元岡山での滞在を経て、再就職のために東京へと移り住んだ。 東京にやって来て最初に住み始めたのは、東高円寺駅のそばにあるアパートであった。そしてそこからしばらくの間、飯田橋にある東京しごとセンターへと通い始めた。センターでは就職のための様々な相談や研修を受け、自分に合った仕事を探していた。そんなある日に、企業でのインターンシップ制度を利用する機会を得ることになった。そしてそれを通じて、水道橋にある経営コンサルティング会社へと赴くことになった。会社ではコンサルティングの他にも、起業家を育成する支援事業も行っていた。そのような状況下で、社長直々に指導を授かった。インターンシップ制度の利用期間が終了した後に、正式に入社することになった。より正確に言えば、業務委託契約を結ぶことになった。そこからがまた、いばら道の始まりであった。社内では主に起業家育成に携わり、多くの起業志望者を対象とした営業や研修運営を行った。東日本大震災の直後に実施された統一地方選挙で、唐突に無所属で立候補するに至った。客観的にはあまりにも無謀な行為であったと思えるが、これも主が定めた御計画なのだと後に悟った。そしてここでの貴重な経験は年数を経て大きな意味を持つことになったのである。仕事の傍ら、国連の主催するミニ模擬国連総会で日本代表として日本における社会問題を解決するための政策提言なども行っていた。この経験が後に世界統一を思い描く礎となる。

ニュージーランド起業期

ある日、転機が訪れた。知人の紹介でニュージーランドで新しく会社を立ち上げることになったのだ。そして東京での準備期間を経て、オークランドへと住まいを移すことになった。オークランドでは、新しい国際金融会社の運営に奮闘していた。毎日のように世界中の企業や顧客と取引を行い、目まぐるしく事が進んでいた。さらに事務所内でも突然の嵐による浸水も発生して、緊急対応に迫られる日々もあった。またそれだけでなく、仕事の合間に美女との戯れも楽しんでいた。総じてニュージーランドでの生活は大変充実していたようだ。

再東京期

とあることがきっかけで、再び東京へ戻ることになった。それは大学院大学への入学である。話を戻すと、実はニュージーランドへ行く前から入学を希望して願書も提出していた。そしてニュージーランドでの滞在中に入学許可が出たので、急遽仕事を辞めて帰国することになったのだ。当然のことながら、これは苦渋の選択であった。そして、導かれた道を選んだ。入学したのは国連大学という、国連の教育機関であった。ここには世界中から生徒が集まり主に英語で授業が開 かれる。そして自分は、国際協力開発を専攻して深く学ぶことになった。大学では様々なことを 学んだが、そんな中でも特に印象に残っている出来事がある。それは、ある特別な国際会議であった。これには世界中から多様な分野の専門家が集まり、今後世界をどのようにして統一していくのかと言う、いわば世界統一を主題として講演会と意見交換会が催されたのである。会では参加者から様々な議題が持ち上がり、活発な議論も交わされた。そして実際に参加してみてある一つの大きな問題に気付かされた。それは、誰一人として世界統一を果たすための具体的な案を持っていないということである。様々な意見が出たものの、結局核心を突いた提案には至らなかった。ゆえに今日においても世界統一は程遠い状況である。会の後にある構想を具体的に描き始め、それが世界統一のための計画である。そして大学での勉強の傍らで、世界を一つにまとめるための国際的な憲法を書き記していった。大学後また新たな活動をいくつも始めていき、それは主に英語を用いた国際共育であった。ある時には笑いの本質について生徒と共に学び、またある時には英語の相対性原理を説いた。その後にまた新たな出会いがあり、それが日本の人権問題を国連に提起している NGO の代表の方であった。その方とは国連大学内で催されたある会合で話し合うことになり、すぐに意気投合して話が進展していった。そして、ジュネーブで催される国連人権規約委員会のための英文報告書作成や、国際会議での日英通訳を担当することになった。このような経験を通して痛感したのが、いかに日本においては個人としての人権が十分に確立されていないかということであった。名目上は日本政府も国際人権規約に批准して国内での人権向上に努めていると言うものの、実質的には組織の体制維持を重視するがあまり個人の尊厳を軽視している。これには日本古来のよそ者を除外しようとする村社会的な気質が起因しているのであろう。いずれにせよ、日本政府も国際社会において共存していく以上、本質的な改善が必要である。そして2014年7月1日、偶然にも集団的自衛権行使容認の閣議決定が下された同じ日時に、新たな法人を設立するに至る。そして11月下旬の衆議院解散総選挙を機に帰省することになる。

再岡山期とエルサレム愛行

岡山に戻ってからは、本格的に地元での政治活動を始めていった。党派を超えた様々な議員の 方々と水面下での交渉を重ね、選挙への出馬や秘書として勤める話も度々持ち上がった。さらに時を同じくして、聖界に通じる方々との交わりも深めていった。中でも特にキリスト教会との関係はより親密なものとなっていった。そしてついに、自らもクリスチャンになった。その後聖書を中心とした伝道と英語共育を岡山全域で行う中で、主の見えざる導きによって総理大臣のような熊代昭彦さんと聖事を始める。さらにしばらくして、主の呼びかけに応えるように、エルサレムへ愛に行くこととなる。

総括

以上が、備の生い立ちから現在までの大まかな歩みである。様々な場所や時期での聖事を経て今に至る訳だが、総じて備の歩みはすべて主の御計画に基づいて進められてきたのである✞

備考:エルサレムへ、愛に行きませんか?

海外旅行を考えているあなたへ突然ですが、あなたはエルサレムへ行ったことがありますか?もしまだなら、是非これを読んでみてください。きっとあなたの旅のお役に立ちます。

Instead, you ought to say, “If it is the Lord’s will, we will live and do this or that.”

James 4:15

はじめに、この御言葉が主から与えられた。そしてこれが、旅立ちへの合図である。備 大始郎(そなえ たいしろう)は、主からの天命を受けてこの聖地へと降り立った。地元の岡山から夜行バスで東京、そして成田空港を経て、イスラエルのテルアビブにある Ben Gurion International Airport へとたどり着いたのだ。渡航時間は全部で約1日を要した。海外旅行が容易になった現代において、誰でも自由気ままに色々な場所を訪れるが、備の旅の目的は一般的な旅行者と明らかに違っていた。それが最初に描いた主の御言葉にある。特に休暇で旅する場合、ほとんどの旅人はまず自分の得られる快楽のために行き先を選ぶ。何か面白いものはないかと、当てもなく迷い歩く者も数多くいる。やがては、飽きてくる。旅行の目的はひとそれぞれだが、エルサレムに来るのであればこれだけは言っておきたい。

「何をするにしても、すべては主の栄光のために。己の快楽を追い求める者は、堕落する」

おそらくこれを読んでいる読者の多くは主について全く知らないと思うので、その方々のために主について補足すると、一言で主とは万物の根本で、即ち創造主なのである。詳しくは聖なる書の創世記から読んで頂ければ、そこに必要な事柄を見出すはずだ。 真夜中に空港からタクシーでエルサレムにやって来て、備は疲れ果てていた。滞在先の家にようやくたどり着いた時には、深夜1時を過ぎていた。中に入るとすぐに深々と眠った。翌日に目が覚めると、同じく滞在している何人かの旅行者に出会った。どこから来たのかは定かでないが、どことなく不思議な様相をしていた。そしてよりいっそう目が覚めていくと、この家には世界中から旅人が集まっていることに気付いた。ブラジル、ロシア、ポーランド、ウクライナ、イギリス、フランス、アメリカ、ベルギー、オーストラリア、イタリア、日本…ふと思い起こすだけでも、これだけ様々な国からたった一つの場所に泊まりに来ているのだ。太陽が十分に昇った頃に、家の周りをひたすら歩いてみることにした。そして外に出ると、パレスチナ人らしき青年団がそこらじゅうにいた。何やら、不思議そうにこちらを見ている。少しばかり歩くと、パレスチナ女性にも巡り合った。人により多少異なるが、成人であれば基本的に頭に何かの被り物をしていた。中には黒いもので体全体を覆っている女性もいた。街を少し歩いて思ったのだが、そこら中に色々な物が無造作に落ちている。日本での生活に慣れている人にとっては多少なりとも不快感を覚えるだろうし、一つの社会問題とも言える。 外国人に対する好奇心からか、道端で色々な人によく声をかけられる。場合によっては気をつけた方が良い時もあるが、総じて言えば基本的に良い人たちである。この街は、日中とにかく暑い。この日もしばらく歩き回っただけで、大汗をかいた。自分が滞在しているオリーブ山の一帯は、同じような石造りの家が連なっている。中には数百年間建っているのもあるそうだ。一方で日が沈むと、気温が急激に下がり悪寒を覚えることもある。このような環境が影響してか、現地住民は喜怒哀楽が激しいように思えた。しばし冗談交じりで喧嘩に発展し、そしてまたすぐに仲直りする。基本的にはこの繰り返しである。結局この日は道に迷って、数時間にわたって炎天下の中を歩き回ることになった。それからようやく宿の辺りに戻って来ると、ちょうど家に入る手前で家主の Ibrahim さんに出会った。彼はいつも基本的にアラブ人がよく好んで着用する赤白で線模様になったものを頭に被る。

“Welcome! My name is Ibrahim.”

彼は備を見るなりこう言って右手を差し出した。備もとっさに右手を差し出して握手した。

“Nice to see you again!”

備が彼に会うのは、今回が2度目であった。最初に出会ったのは前回エルサレムに来た時で、たまたま道を歩いていたら彼が話しかけてきたのだ。その時に彼が放った言葉は 衝撃だった。

“Are you from Japan? I ate Sushi with your prime minister! Please come to my house for dinner.”

今まで色々な人に声をかけられたが、総理大臣と寿司を食べたなどと言う人は初めてだった。当然のことながら、最初は大いに耳を疑った。一体この人は何者なのかと疑念に満ちていた。結局その時は名刺だけもらってすぐにその場から去って行ったが、日本に帰ってからも、彼のことが何度も頭の中で浮かんだ。もし彼の家に食事をしに行ったら、どうなっていたのかと。そして後に決心して彼と連絡を取り合い、今回彼の家にしばらく滞在することになったのだ。彼と一緒に家に戻ると、色々な話をしてくれた。どうやら、前の彼の話は本当のようだった。

“I travel all around the world to meet many people like the president, prime minister as a peace activist.”

彼は平和活動家として世界中を飛び回って、多くの大統領や首相等と会って来たそうである。その証拠に数々の書類や写真も見せてくれた。中でも衝撃だったのが、ある書類であった。それは Travel document と呼ばれるもので、彼のように無国籍でパスポートを持たない人達が旅行するために与えられた特別なものである。

“By birth I’m a Palestinian, but by law I’m nothing.”

これは彼がよく口にする言葉だが、事の複雑さを忠実に表している。彼が生まれ育った所は、国際的にはイスラエル占領下のパレスチナ自治区と言われている。彼がパレスチナ人として生まれたことは世界中誰もが認める事実であるが、現存の法律では何の保障も無いのである。ご周知の通り現在においてパレスチナと言う国は存在せず、イスラエル側もパレスチナ人に対して国籍を与えていない。ゆえに彼も、どこの国にも属していない無国籍状態なのである。イスラエル/パレスチナ問題に関してここで話せばきりが無いが、とにかく彼は当事者としてこの問題が平和的に解決できるよう活動しているのである。いつ終わるかは、主のみぞ知る。そしてまた、彼は宗教的な活動にも大変熱心である。彼自身はいわゆるムスリム(クリスチャン?)のようだが、宗派を超えた他宗教間での集会を積極的に催している。特にアブラハムの宗教とも呼ばれる、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教との間での共存共栄を目指した場作りを盛んにしている。エルサレムが長年にわたりこの三つの宗教の聖地と言うのも、大いに影響しているのだろう。 宗教色が強いことが幸いして か、エルサレムには親切な人がとても多いという印象を受けた。少しでも何か困ったら、間も無くして誰かが助けてくれる。これも主からの導きなのだろう。他にも書きたいことは山ほどあるが、 ひとまずこれぐらいでこの章を終わりにする。

そしてこれから

以上エルサレム旅行について書き記してきましたが、いかがでしたか?もし何か質問などがあれば、いつでもどうぞ。そして問題は、これからです。筆者も含めて、これからどうするかを決めるのは自分次第です。これを単なる読み物として終えてしまうのか、それとも今後の一つの指針とするのか、決めるのはあなたです。もしまずは旅行で行ってみたいと思ったら、旅行サイトを検索する前に聖なる書を読むのをお勧めします。なぜならそこには、これから必要な道筋が記されているからです。手にとって開いたページに、あなたの未来があります。 最後に、主からの祝福、平和、未来を語った聖句をここに書き記してこの読者への招待とします。 “Comfort, comfort my people, says your God, speak to the heart of Jerusalem…” (Isaiah 40:1) Amen


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